遠藤周作研究会

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用語集

 この項目では、遠藤周作に関連し、研究に役立つと思われる用語の
簡単な解説をしています。この項目では、皆さんからの情報をお待ちして
おります。
 書き足したい項目くがあるときは、endo_shusaku1923_1996@yahoo.co.jp
へメールださい。

参考文献:山根道公『遠藤周作 その人生と『沈黙』の真実』(2005、朝文社)
加藤宗哉『遠藤周作』(2006、慶應義塾大学出版会)
兼子盾夫『遠藤周作の世界  - シンボルとメタファー ‐』(2007、教文館)

 

−−ア行−−

愛・・・ 遠藤周作は遠藤文学を通じて生涯この「愛」を表現しているが単なる男女の愛というものではなく、「敬愛する」「畏怖する気
持ち」をこめたものとしている。エロスの愛とアガペーの愛の違いなどを後期では随筆でしばしば書いている。
参考文献『恋することと愛すること』
エポペ・・・ 遠藤周作が仏蘭西留学時代、お世話になった、ジュルジュ・ネラン神父が、1980年に歌舞伎町に突如オープンしたバー。ネラン神父は元軍人であり、遠藤周作の後を追うように、来日、長崎、東京で布教するとともに、上智大学、慶應大学でフランス語などの講義をしていた。その後、東京で布教、「日本人は酒を飲まないと本音を吐かない」との信念で、遠藤周作ら周囲が止めるのも聞かず開店。激戦地歌舞伎町で、長く営業をしている(同じフロアの他店はすぐ入れ替わる)。エポペ(epopee)はフランス語で「叙事詩」という意味であるが、ネラン神父は「美しい冒険」と意訳している。
ネラン神父は遠藤周作の小説『おバカさん』の主人公のモデルであり、現在も元気で時々エポペに来店する。
詳しくは → http://www.epopee.co.jp/
狐狸庵山人・・・ 狐狸庵散人とも書く。昭和38年(1963年)3月に、玉川学園に転居、その際の別棟を「狐狸庵」と称した。また、「芸術生活」に連載していた「午後のおしゃべり」が昭和40年(1965年)に桃源社から刊行された際、「狐狸庵閑話」となったのが単行本としての「狐狸庵」の初登場である。昭和42年(1967年)には、「狐狸庵閑話」として「小説新潮」に随筆を連載している。なお、『ぐうたら交遊録』講談社1973(=『周作口談』朝日新聞社、1968)には、北杜夫などとならんで狐狸庵山人を紹介している。なお、読者以外にも一般的に「狐狸庵」の名が知れ渡ったのは、昭和48年(1973年)の“ぐうたらシリーズ”がベストセラーになったこと、某コーヒーメーカのCM、「狐狸庵先生、遠藤周作、違いがわかる男の・・・」と出演したこと以来である。

 

−−カ行−−

哀しみ・・・ 遠藤周作は「悲しみ」よりも「哀しみ」という表現を多用する。これは、弱者へのいたわりの思いが含まれているためなど様々な意味があろう。しかし、小説の題名では『悲しみの歌』と「悲しみ」を使っている。他に短編集『哀歌』がある。これは聖書からの引用でもある。
基督・・・ 遠藤周作は、キリストをカタカナではなく漢字で基督と書くことが非常に多い。特に初期にその傾向が見られる。

 

−−サ行−−

白い人・・・

昭和30年(1955年)「近代文学」五月号、六月号に発表され、同年第33回芥川賞を受賞。
選考委員の意見は、「遠藤は小説作家ではなく批評畑にいく人だ」と危惧して受賞を授けることに難色を示した、「海外にありそうな作品だ」などというものもあったと伝えられている。
第33回の他の候補作は、
 『黄ばんだ風景』『ねんぶつ異聞』 小沼丹
 『或る眼醒め』 川上宗薫
 『未知の人』 澤野久雄
 『阿久正の話』 長谷川四郎
 『銀杏物語』 岡田徳次郎
 『息子と恋人』 坂上弘
 『馬のにほひ』加藤勝代       
であり、選考委員は宇野浩二、佐藤春夫、瀧井孝作、石川達三、川端康成、丹羽文雄、舟橋聖一、井上靖の各氏であった。
なお、「白」はキリスト教図像学では「霊魂の無垢」「清純」「生命の神聖さ」をあらわすとされ、遠藤作品では「西洋キリスト教またはその正当性の象徴」として使われいる。

佐藤朔 ・・・

 遠藤周作が慶應義塾大学の学部で仏文科に進むことを決心させた恩師。予科3年であった、昭和19年、当時父親の家族と住んでいた経堂の家から川崎の勤労動員へ通っていた頃、下北沢の「白樺書店」という古本屋で偶然眼にした『フランス文学素描』という佐藤朔の著書を読み衝撃を受け、フランスカトリック文学について強い興味を覚えた。予科時代は独語のクラスにいたが独学で仏語を学び、学部では仏文専攻を選択した。
 昭和20年4月文学部仏文科進学、しかし戦争のため講義は秋からであった。当時、文学部の講師であった佐藤朔は病気のため休講でと掲示されていた。堀辰雄の紹介もあり、遠藤周作は佐藤朔へ手紙を書き、訪問を許されその後、佐藤朔の指導の下、カトリック作家の問題、ジャック・マリタン、ポール・ヴァレリーなどを学んだ。初めて渡されたまた、本は シャルル・デュボスの『フランソワ・モーリャック』であった。また、濫読と精読の併用など、読書の方法についても指導を受けた。
  この頃共に佐藤朔の個人指導を受けていた吉田俊郎が小田原で入水自殺するなど、その後の遠藤周作に大きな影響を与える事件も起きた。佐藤朔は遠藤周作があまりに多方面に興味があり、また才能もあることに危惧をしていた。フランス留学の話があると聞いたときに、真っ先に「なんでもかんでもフランスへ行くことをすすめた」と書いている。留学に先立ち、大学卒業時に遠藤周作が就職の世話を依頼したときには、言下に「ノン」と答え、「ものを書けばいいじゃないか」と突き放すように言い放った、という。遠藤周作が「もの書きでは、一人前になるまで、飯が食えません」というと、「じゃあ、筆で早く飯が食えるようになればいいじゃないか」ととりつく島もなかったという。しかし、実際には鎌倉文庫へ嘱託として推薦した。
 1955年(昭和30年)9月9日、遠藤周作・順子夫妻のホテル帝都での結婚式のときは、佐藤朔夫妻が媒酌人を務めた。
 1996年(平成8年)3月25日、91歳で永眠。この時、遠藤周作は長期療養中であったが6月に慶應病院に再入院し透析方法を腹膜透析から血液透  析に切り替えたところ、奇跡的に1週間程度意識が明瞭になり、口述で追悼文「佐藤朔先生の思い出」を書いた。奇しくも同年9月29日に遠藤周作も帰天し、この追悼文が絶筆となった。この文は「三田文学」平成9年冬季号に掲載された。なお、佐藤朔は1905年(明治38年)生まれ、1930年(昭和5年)慶應義塾大学文学部卒業、1969年(昭和44年)〜1973年(昭和48年)まで同大学塾長を務めた。

 

参考文献:遠藤周作『お茶お飲みながら』「わが師・佐藤朔先生」(1984、集英社文庫)、遠藤周作「佐藤朔先生の思い出」『三田文学名作選』(2000、三田文学会)、佐藤朔「遠藤君のこと」『別冊新評』〜遠藤周作の世界〜(1973、新評社)(=初出は講談社刊『現代の文学20・遠藤周作』の月報)、佐藤朔「アデンまでまで」『面白半分』1月号臨時増刊号〜こっそり、遠藤周作〜(1980、面白半分)

−−タ行−−

第三の新人 ・・・

遠藤周作の留学中の昭和26年(1951年)ころから徐々に文壇に現れた当時純文学を書いていた同世代の作家の総称。
昭和26年(1951年)に芥川賞候補になっていた、安岡章太郎が昭和28年(1953年)に芥川賞受賞したのを皮切りに吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三らが次々と受賞。文壇の中でも一つの勢力と見られるようになった。遠藤周作も昭和30年に芥川賞を受賞しこの第三の新人の作家グループとはきわめて親密な間柄となる。
その後、長年にわたり遠藤周作はこの第三の新人達と親しく付き合い、文壇でもまれな緊密なグループとなった。

「第三の新人」という言葉を使って初めて批評を試みたのは山本健吉というのが定説であるが(文学界・昭和28年1月号)、その文章の中で山本健吉自身が、「かふいう(第三の新人)題で、本年度に現れた新人について書けとの編集部の注文である」と書いていることから、「第三新人」の命名者ではない。
同じ文章の中で山本健吉は「野間宏、椎名麟三、梅崎春生、中村真一郎らを第一次アプレゲール作家と呼ぶことがあるので、それを第一次とし、第二次は、堀田善衛、安部公房、石川利光、小山清、畔柳二美、安岡章太郎、三浦朱門とすることとする」、という内容の
ことを書いている。また、「(第三とは)おおかた『第三の男』という映画から思ひついたのであろう」としている。
なお、この文学界の文章の中で山本健吉が「第三の新人」としてとりあげたのは、西野辰吉、井上光晴、長谷川四郎、塙英夫、武田繁太郎、伊藤桂一、澤野久雄、吉行淳之介らであり、後に定着した第三の新人イメージとはかなり異なっている。山本健吉自身も「編集部のリストの順に取上げた」と書いている。
山本健吉が第一次、第二次アプレゲール作家としたグループをやや異なる見方もあるが、第一次戦後派作家、第二次戦後派作家と呼ぶこともある。

第三の新人について特色を規定したのは服部達である。服部達はまず近代文学昭和29年(1954年)・1月号で「新世代の作家たち」として、阿川弘之、前田純敬、島尾敏雄、安岡章太郎、吉行淳之介、長谷川四郎、塙英夫、小山清、三浦朱門、武田繁太郎の10人を批評し、これが「第三の新人」の原型的なものに対する一つの見方になった。
ここで、服部達は第三の新人の登場の背景の条件として
・戦争中に青春期を過ごしたこと
・観念的高踏的な戦後派文学の反動としての、私小説的伝統への復帰の流れに掉さしたこと
・朝鮮動乱の特需による景気回復に比喩的に照応すること
の三つをあげた。また、その文学の最大公約数的特徴として、日常性、、生活性、即物性、抒情性、単純性、単調性、独白性、形式性、非倫理性、非論理性、反批評性、非政治性、現状維持性などを列記した。
しかし服部達は翌年、文学界昭和30年(1955年)・9月号の「劣等生・小不具者・そして市民〜第三の新人から第四の新人へ〜」という文章の中でこの分析を一部修正している。
この中で、服部達は「第三の新人」らしい「第三の新人」とは、という文章の後、
・彼らのものの見方がつねに心理主義的
・ないしあまりにも心理主義的
とし、第三の新人以前の戦前戦後派作家が常に何かを何かの形で信じた上で書き出していたのに対し、「第三の新人は」たちには、何も信じられず、「青春時代すなわち戦争の時代が終わった後には、彼らの手元には何も残らず、唯一彼らの元に残ったものといえば、一向に見栄えのしない、みずから信じこもうとする熱意も大して湧きたたない、平凡で卑小な自我"であり、その上やっかいなことに、要領よく立ち廻るだけの才覚に乏しい彼ら(中略)は逆手を使う以外になかった。

そして、彼らができたことといえば、外部の世界も、高遠かつ絶対なる思想も、おのれのうちの気分の高揚も信じないこと。おのれが優等生でなく、おのれの自我が平凡であり卑小であることを認めること。しかも、大方の私小説家のように、深刻ぶった、思いつめた顔つきをしないこと、だった。と書いている(@)。

ここで、「第三の新人」として服部達が名前をあげているのは、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、小沼丹、曽野綾子、三浦朱門であり、前述の「逆手の発想」を最初に発見し、定着させ、第三の新人の原型となった作家として、安岡章太郎をあげている。

遠藤周作と服部達は、昭和29年に「現代評論」の創刊に共に携わり、また文学界昭和30年4月号から9月号から、村松剛と三人で「メタフィジック批評の旗の下に」という文を連載(著者名は三角帽子)したことなどから、非常に親しい関係であった。
服部達は批評家としての遠藤周作を高く評価していたと思われる。

しかしながら、翌昭和31年元旦に服部達が八ヶ岳山麓の雪中で自殺(遺体発見は半年後)したため、服部達は遠藤周作の小説については詳しい批評を残していない。

なお、服部達は遠藤周作が芥川賞受賞の後、「なだ万」で「第三の新人」が大宴会をしているのを見て「今が第三の新人の花盛りだな」と言ったと伝えられている(A)。

遠藤周作は留学前から批評家として活動していたので、第一次戦後派の作家、中でも梅崎春生などと親しかった。また、その性格から柴田練三郎などの先輩作家らとも親しく、留学後、第三の新人のグループともすぐになじんだ。

当時、『群像』編集長だった大久保房男は「第三の新人」と同世代であり、吉行淳之介全集第10巻、新潮社刊の月報に「第三の新人が蔑称だった頃」という文章を書いている。
大久保房男によれば、第三の新人とは、戦後派(左翼系やマチネ・ポエティックら)のように、文学運動をするわけでもなく、同じ傾向の文学を目指していたわけでもない。単に1952(昭和27)年ころから、吉行の家に出入りしていた交友グループのことだという。

また、高見順の発言、「第三の新人て、あれは大正文学だね」を引用し、第三の新人を評価しているふしがあると紹介し、彼の発言の意図を以下のように推測している。

・戦前の文壇と文芸雑誌は短篇小説が支え
・大正作家は彫琢された文章で味のある短篇
・余計者の視点で私小説

当時、戦後派との比較において、第三の新人とは、余計者の主人公にした私小説を書く作家達、つまり安岡章太郎、吉行淳之介そして庄野潤三が代表的である、と考えられていた。

第三の新人作家は、第一次、第二次戦後派作家などと比較され、当時は何かにつけ悪くいわれていた時期があったという。また、当時、序数としての第三が、三等重役や三等車の三のように見られ、第三の新人は蔑称となっていたともいう。
大久保房男は「第三の新人」の応援団を自任し、長編小説を書くよう叱咤激励していた、とも書いている。

なお、大久保房男は、「第三の新人」を、「交友グループ」としての第三の新人と、「派」としての第三の新人に分類していて興味深い。

→交友グループ:安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三、阿川弘之、遠藤周作、島尾敏雄
→派:安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三、小島信夫、近藤啓太郎
安岡章太郎によると、阿川弘之は「第三の新人」の兄貴分のような存在だった、とのことである。

なお、石原慎太郎、北杜夫、大江健三郎らを「第四の新人」とし、この「第四の新人」が「第三の新人」を飲み込む、という論調も当時見られたが「第四の新人」は言葉も、グループとしても定着しなかった。

 

参考文献、引用:山本健吉「第三の新人」『文学界』昭和28年(1953年)1月号
服部達「新世代の作家たち」『近代文学』昭和29年(1954年)
服部達「劣等生・小不具者・そして市民〜第三の新人から第四の新人へ〜」
『文学界』昭和30年(1955年)・9月号…@
安岡章太郎「僕の昭和史II」…講談社、昭和59年(1984年)…A
安岡章太郎「私の履歴書」日本経済新聞、平成8年(1996年)5月
吉行淳之介全集第10巻、新潮社、平成9年(1997年)

−−ナ行−−

−−ハ行−−

仏蘭西(佛蘭西)・・・ 遠藤周作は随筆や小文ではかならず仏蘭西と漢字で書き、フランスとは書かない。小説においても仏蘭西と書く場合が多い。逆にパリはカタカナで書き、巴里とは書いていない。
原民喜(はらたみき)

遠藤周作は原民喜について繰り返しエッセイのなかで語っている。
「私の青春時代の最も感じやすい三年間、毎日といってもいいほど会っていた十七歳も年上の先輩ですが、極めて純粋な人でした」「私たちはいろんな人と出会いますが、心に何の痕跡もなく過ぎ去って行く人もあります。原さんという人は私だけでなく、周りの多くの人に強烈な痕跡を残して行きました。あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります」(『死について考える』)
原民喜は、1905年広島市生まれ。陸海軍・官庁用達の繊維業を営む裕福な家に育った。11歳で父を亡くし、その衝撃から極端な無口となり詩作を始め、同人誌に投稿、俳句にも親しむ。1929年慶應義塾大学英文科に進学、ダダイズムを経て一時左翼運動に傾くが検挙され退く。1933年、永井貞恵(評論家佐々木基一の姉)と結婚。妻貞恵は民喜のよき理解者となり、民喜はこの時期、精力的に執筆し短編小説を多数「三田文学」に発表している。しかし1944年、妻貞恵死去。妻との思い出は後に「忘れがたみ」など多くの美しい作品を生んだ。1945年1月、郷里の広島へ疎開。8月6日原爆被災し、二晩野宿する。人類の未曾有の苦しみを目の当たりにした体験は、惨状をメモした手帳を基に描いた「夏の花」(第一回水上滝太郎賞受賞)などに結晶していった。1946年に上京、三田文学の編集に携わり、1948年1月からは編集室となっていた能楽書林の一室に転居した。
1948年6月、遠藤は能楽書林を訪ね、民喜と出逢った。この頃の遠藤は大学を卒業したばかりで「カトリック・ダイジェスト社も鎌倉文庫も常勤ではなく、父の家で勉強するか、三田文学の編集室に通う毎日」(年譜:山根道公編)であり、二人は遠藤がフランスへ留学するまでの約2年間、飲めば互いに「お父さん」「ムスコ」と呼び合うほどの深い親交を持った。
この頃の民喜は、妻も亡くし原爆にも遭い、「このことを書きのこさねばならない」(「夏の花」)という使命感と「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ」(「鎮魂歌」)との祈りのうちにあり、生活の糧を顧みることなく執筆のみに生きていた。そうした戦後の民喜にとって、遠藤の存在は大きな慰めであったことだろう。遠藤は留学前の春、民喜と民喜が聖女のように思っていたU子さんとその従妹を誘って多摩川へボートに乗りに行っている。そして、いよいよ遠藤がフランスへ発つ日、民喜は横浜港まで見送りに行き、埠頭で一番あとになるまで残って見送った。
1951年3月13日、民喜はすべてを書き終えて遥かなる世界へ旅立つことを願い、鉄道自殺を遂げた。民喜が遠藤に残した遺言は短く「これが最後の手紙です。去年の春はたのしかつたね。では元気で。」とあった。「去年の春」とは多摩川の一日のことであった。留学先のリヨンで民喜の死を知らされた遠藤は大変な衝撃を受けている。
1953年、遠藤は留学から帰国。その直後に民喜を偲んで命日に行われた花幻忌会(かげんきかい・佐藤春夫の命名で、遺作の詩「碑銘」の「遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ 天地のまなか/一輪の花の幻」による)に出席し、以後30年以上に渡り幹事を引き受けた。
民喜の遺稿「永遠のみどり」に出てくる「E」とは遠藤のことである。民喜は作品のなかでさりげなく、これからの時代を生きる遠藤に希望を託している。

参考文献:『夏の花・心願の国』新潮文庫、1973
『原民喜戦後全小説 上・下』講談社文芸文庫、1995
『定本 原民喜全集』青土社、1978
竹原陽子「イエスのような人−遠藤周作に残された原民喜の痕跡」

(「三田文学」2006.11秋季号)

 

平凡 ・・・  遠藤周作の純文学作品、中間小説、随筆、狐狸庵ものなどを通じて『テレーズ・デゥスケルウ』に登場するベルナールを彷彿させるような人物が登場したり、例に出されたりしている。いつも1足す1は2であり、2足す2は4であるという顔をして生活し、行動もまったく判で押したような人物である。(※モーリヤックの項参照)
『海と毒薬』においても「何もないこと、何も起こらないこと、平凡であることが人間にとって一番、幸福なのだ」と冒頭に出てくる「私」の発言として書かれている。短編小説「男と女」や、婦人雑誌に連載された随筆にも同じような記述が多く見られる
また、同様に随筆や中間小説の中でマルセル・プルーストの「不安は情熱を燃えあがらせ、安定は情熱を殺す」という語句をしばしば引用している。その例として、自分が思っている女性への、他人の愛の告白を代行する『シラノ・ド・ベルジュラック』の話をしばしば引用している。1足す1は2であるという人間の側いると、言いようもない重苦しさに支配され、愛としての情熱は薄れ孤独と虚無の中で枯れ果ててゆく。しかし、重苦しさから開放されようという不安から、別な情熱が起こり自分でもわからない理由から夫を殺そうとしたり、生体解剖の現場に無批判に立ち会う、というような行動に走る。無神の世界に生きる人の心を襲う底知れぬ不安を宗教的視野で描く、という遠藤作品を貫くテーマの一つを「平凡」という言葉を通じて表現しているように思われる。

参考文献:『海と毒薬』(新潮文庫、1960)p.21
「男と女」『第二ユーモア小説中』(講談社文庫、1975)より
「「テレーズ・デゥケルウ」のお話」『狐狸庵うちあけ話』(集英社文庫、1981)より
「情熱と愛は違う」『愛情セミナー』(集英社文庫、1977)より

 

−−マ行−−

モーリヤック
(フランソワ)・・・
 フランソワ・モーリヤック(1885-1970)は、フランス、ボルドー出身の作家。遠藤とモーリヤックの著作との出会いは1944年に遡る。「ともあれ、堀氏の随筆を通してモーリヤックの名を知った私はこの作家がカトリック作家であるから、わが身に引きつけて勉強してみようという殊勝な気持になった。その上、幸運だったのは、たまたま下北沢の古本屋でみつけた「フランス文学素描」という本にこのモーリヤックのことが二章にわたって書かれていたのみならず、著者の佐藤朔という仏文学者がこれから勉強するであろう三田の文学部の講師だと知ったことである。」(『遠藤周作文学全集』14巻、9頁)と遠藤は後年、『私の愛した小説』に書いている。佐藤朔という師を得て、堀辰雄を通して出会ったモーリヤックに遠藤は次第にのめり込んでいくのだ。
遠藤が認めているように、「カトリック作家」であったことが二人の接点であった。モーリヤックの訃報に接して書かれた「モーリヤックと私」の中では、そのことを「私自身は偶々、小さいときに母親から基督教の洗礼を受けさせられたため、「自分から洗礼を受けたのではないので人生の途上で改宗した他人をうらやむ」と告白したモーリヤックに、何か同じ境遇をもつ者の親近感を抱きながら、その翻訳を読みだしたのが始まりである。」(13巻、79頁)とさらに説明している。モーリヤックの早世した父親に信仰はなく、モーリヤックの信仰もまた母親から受け継いだものであった。つまり、単に「自分から洗礼を受けたのではない」ことばかりではなく、むしろ「小さいときに母親から基督教の洗礼を受けさせられた」ことこそが二人の共通点となっているのである。
遠藤周作におけるモーリヤックを語る時、この母性と信仰の緊密な繋がりを看過してはならない。遠藤が何よりも愛したモーリヤックの小説は言うまでもなく、『テレーズ・デスケルー』であり、遠藤は『アデンまで』から『深い河』まで、様々な形でテレーズを髣髴させる作中人物を自作に導入し続けたのだが、その時問題とされるのは、ほとんど常に母性と誘惑との相克であり、信仰と誘惑の葛藤ではなかった。だが、信仰は不在なのではなく、母性の背後に潜んでいるのである。そのことは『深い河』の成瀬美津子によく表れている。
遠藤周作は、1950年からフランスのリヨンに留学し、「フランソワ・モーリヤックの作品における愛と吝嗇」というテーマを掲げて博士課程に登録する。1951年の夏には、井上洋治を訪ねる傍ら、モーリヤック作品の舞台となったボルドーやボルドー近郊の村を訪れて「テレーズの影をおって」というエッセーを書いている。この中で遠藤の意識し始めた「モーリヤックの感性」に潜む「ねそべる快楽」(12巻、144頁)は、遠藤作品の中のテレーズ的作中人物を見分ける重要な指標となっている。
また、この旅行でランドの森の中を歩いた時のことを、『風の十字路』の中では、「だから、私は単なる林ではなく、小説の書き方を学ぶために森のなかを歩いていった。それで、いつの間にかモーリヤックと一緒に森のなかに入っていくような気持ちになっていましたが、それは人間の心の奥へずうっと入っていくというような感じでした。」(38頁)と語っている。もともと遠藤は、「堀さんがモウリヤックを通してエッセイで私に教えてくれたのは『混沌として明晰に分析しがたい』人間の深層心理についてであった」(13巻、416頁)と「二つの問題」に書いているように、モーリヤック作品と出会った時から、「混沌とした人間の心の奥に心をひかれた」のだった。ランド旅行の記述はモーリヤックに導かれて遠藤が人間の心理を探求する作家として誕生する瞬間を捉えているようで興味深い。
『深い河』の成瀬美津子が大事なのは、遠藤がこの時のランド旅行を託すほどに、遠藤の小説の中で、もっとも直接的にテレーズ・デスケルーと結び付いた作中人物となっているからである。成瀬の役割は、「長い間の習慣か、惰性かなあ、ぼくの一家は皆そうだし、死んだ母が熱心な信者だったから、その母にたいする執着が残っているのかも」(4巻、197頁)と語るように、「惰性」或いは、「母にたいする執着」から教会に通っているに過ぎなかった大津を誘惑して捨て、いったんは信仰を離れた大津に「おいで、私はお前と同じように捨てられた。だから私だけは決して、お前を棄てない、という声を」(4巻、215頁)響かせることである。つまり、遠藤がモーリヤックを読むきっかけとなった「小さいときに母親から基督教の洗礼を受けさせられた」体験を克服し、与えられただけの信仰を再び自分で選び取ることを可能にするのが、テレーズ的作中人物に託された役割だったのである。
この使命を果たしたとき、成瀬美津子は「母なる河」へと導かれ、「人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」と「祈りの調子」(4巻、340頁)で語る。母性への回帰が「祈り」への回帰となり、ついに遠藤の「母なるもの」がアルジュルーズのねそべる快楽にふけるテレーズの方へと溢れ出していくのだ。
それにしても、遠藤はモーリヤックに会ったことがあるのだろうか。遠藤順子夫人は、「モーリヤックにも一度会っていると思います。ボルドーで。」(『夫・遠藤周作を語る』、160頁)と鈴木秀子氏に語っている。だが、モーリヤックが危篤だと聞いて、「どうしてもモーリヤックに会いたく、知人を通してボルドーの彼の兄(大学の医学部の先生だった)にきいてもらったら、弟は秋にブドウの取入れを監督するために戻ってくるという返事だった。」(13巻、80頁)とだけ書いているところを見ると、その可能性は低そうだ。『深い河』の成瀬美津子にとって、「ランドの旅」が「意味のない、何も発見できぬ」(4巻、213頁)ものへと変質していたように、たとえば現実のモーリヤックに会うことなどは、次第に遠藤の中で意味を失っていったに違いない。ただ、テレーズ・デスケルーという作中人物だけが遠藤の中に独自の生命を保っていたのだ。

参考文献
遠藤周作の作品
『遠藤周作文学全集』全15巻、新潮社、1999年‐2000年。
[「私の愛した小説」(14巻)、「モーリヤックと私」(13巻)、「テレーズの影をおって」(12巻)、「二つの問題」(13巻)、「深い河」(4巻)]
『風の十字路』、小学館、1996年。

遠藤周作について
遠藤順子『夫・遠藤周作を語る』(聞き手・鈴木秀子)、文藝春秋、1997年。

遠藤周作とモーリヤックについて
福田耕介「遠藤周作とフランソワ・モーリヤック テレーズ的主人公の救済」、『三田文學』第84号、2006年、160-172頁。

『テレーズ・デスケルー』について
山辺雅彦ほか『秩序と冒険 ― スタンダール・プルースト・モーリヤック・トゥルニエ』、2007年、Hon’sペンギン。

−−ヤ行−−

−−ラ行−−

ロスタン・・・  エドモン・ロスタン(1868-1918)が、実在の17世紀の詩人を主人公として描いた戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』(1897)は、遠藤周作の愛読するフランスの文学作品の一つであった。『恋することと愛すること』(1957)から、遠藤の言葉を借りて、この戯曲のストーリーを簡単に紹介しておこう。
 「シラノはロクサーヌとよぶ乙女にひそかな愛を感じていました。だが、醜い自分の鼻のことを思う時、彼はロクサーヌに、自分の胸の中を打ち明けることはできなかったのでした。」「シラノはクリスチャンのロクサーヌにたいする恋心を知るや否や、進んで彼女を、この詰らぬ男にゆずったのみか、彼等の恋の成就のために時には友のために優しい思いを打ち明ける恋文の代筆をしてやり、時には友に代って闇の夜の露台の下で、心のこもった愛の言葉を述べているのであります。」「その心をロクサーヌが知ったのは、シラノが不慮の災難から死なねばならぬ瞬間でした。しかし彼女がむかしの恋文の秘密を悟った時、シラノとその女性とは死によって永遠に遮られていたのであります。」
 遠藤は、シラノが自分の愛する女性を平凡な男に譲った理由を、「シラノはただ、ロクサーヌを、どんな男でも良い、結婚させて、自分の手に届かぬ地点におきたかったからであります。」「なぜなら、別離、苦悩、不安の方が、彼のロクサーヌにたいする思慕をかきたて、更に純化することをシラノは無意識に知っていたからなのでした。」と説明している。シラノは、不安や苦悩がなくなれば情熱も燃え尽きてしまうこと、情熱を滅ぼさないためには、「別離によってひき起こされる悲しみや苦痛を味わうこと」が必要であることを例解する作中人物であり、そのことが遠藤の恋愛観と合致していたのだ。
 もちろん、二人の男性が一人の女性を愛することは、遠藤自身の小説で繰り返し描かれる恋愛の形でもある。遠藤の小説世界は、むしろ上のような理屈に留まらない心情の深いところで、ロスタンの描くシラノの姿が遠藤の共感を呼び覚ましていたのではないか、遠藤に何かシラノと響き合う個人的な体験があったのではないか、という想像へと我々を誘わずにはいない。一例を挙げれば、やはりフランス文学の影響を強く感じさせる『さらば、夏の光よ』(1965年3月から1966年2月まで『新婦人』に掲載)の中で、遠藤は野呂、南条と戸田京子の恋愛を描き、それに立ち会う人物として「遠藤周作」を登場させている。「遠藤」のアドヴァイスを受けた南条と京子が恋愛関係になり、婚約する。その時、野呂は、「遠藤」の講義できいた『シラノ・ド・ベルジュラック』を思い出し、「その時の僕にはシラノの気持が泣きたいほど心に伝わってきたのです。」と手紙に書いている。南条と京子の恋の仲立ちをする「遠藤」と、シラノの心情を理解する野呂が、同じ位置に立っていることは言うまでもない。この小説では、野呂が「別離」に留まることなく、南条の不慮の事故死のために、妊娠していた京子との結婚に踏み切るのであるが、そこに彼を待ち受けていたのはテレーズ・デスケルー的な孤独に過ぎなかった(作中では『ボヴァリー夫人』が言及されている)。
 遠藤はまた、『恋することと愛すること』の刊行と同じ年に、『シラノ・ド・ベルジュラック』(1957)という短篇も書いている。遠藤は、語り手「私」がフランス語を習っていた先生の書棚に、シラノ自身の手記を見つけたという設定で、ロスタンの戯曲とは違うシラノの「真実」を読者に提示する。シラノは、美男で遊蕩に明け暮れていたが、ある日その報いか、鼻が腫れ上がって醜くなる。それで愛していたわけでもないロクサンヌとの政略から結ばれていた婚約を破棄する。その後、彼女と再会した時に、彼女がもう自分のものではなく、そのうち誰かのものになるという嫉妬に苦しみ、軍隊でいじめていたクリスチャンに彼を押し付けることを思いつく。その根底にあるのは、「安定は愛を殺すが、不安はそれをかきたてると言う単純な原理」であり、シラノから純愛が消え、ことさらに「結婚」が「情熱を殺す」「重い鎖」として意識されるようになったことを除けば、遠藤の基本的なシラノ観に変化はない。

参考文献
遠藤周作『さらば、夏の光よ』、講談社、1976年。
    『恋することと愛すること』、実業之日本社、1994年。
    『遠藤周作文学全集』第6巻、新潮社、1999年。
ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』(辰野隆、鈴木信太郎訳)、岩波文庫、1995年(初版1951年)。

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